5/28、アノエタのピッチからファンにお別れをするカルピン
(両隣は娘さん)


来シーズン、貴方がピッチ上にいないなんて
いまだに信じられません


引退を迎えて各紙にはインタビューが連日のように
載っていました。強烈なコメントを出すことでマスコミには
人気だった彼だけあって、どこも彼の引退を惜しんでいました
またちょうど、6/30の会長戦に候補ミゲル・サントスの
スポーツディレクターとして共に立候補したこともあって
盛りだくさんのインタビューになっています
ちょっと長くなりますが、是非読んでみてください
彼という人をさらに身近に感じられるはずです

(なお、この年、ラ・レアルは会長選があり、バレリも
候補者ミゲル・サントスのスポーツディレクターとして選挙活動を
サポートしていた。サントスはそれまで多くの選手の
代理人として活躍していた人物)
2005/05/24
RS.com-最後のスビエタでの記者会見-
土曜日は特別な試合になりそうですか?
「きっとそうなるだろうな。最後の試合なんだから。初めての試合が初めてだって言うだけで特別なのと一緒だね」

今週は現役最後の一週間です。今までとは違う一週間ですか?
「違うね。引退まで後3回の練習と1つの試合しか残っていないからな。だけど、この瞬間を俺はずっと待ってたわけだから」

幸せな気分ですか、それとも悲しいですか?
「同時に両方の気分だね。他の皆と同様、早くシーズンが終えてのんびり休暇を楽しみたいと思ってる一方で、寂しくもある。これまでの一生を捧げてきたことから離れるわけだから。しかしいずれにせよ、今が現役を引退する最高のタイミングだと思ってる」

最後の試合はどんな試合になると思いますか?
「今までの試合と一緒。多分、監督が前半の途中で交替させてくれて、観客が俺に拍手してくれるんじゃないかとは思うけど。当たり前だけど、花火とかそんな類のものはないから」

リーガで500試合出場というご自分の成績をどう思います?
「スペインで毎シーズン30数試合はコンスタントに出場してたってことの証しだね。在籍した全てのクラブでプレイする事が出来て、どの監督にも使ってもらえたってことだ。そして、節制の結果だと思う。深刻な怪我もせず、時に怪我をしても結構短時間で回復することが出来た。いつだって俺の望みは試合に出ることと、全力でプレイすることだった。もっとも医者には、お前は自分のしたいようにして、医者の手を煩わせる事もないだろうって言われたけどね。誰もがそのように上手くいくとは限らんだろうし、人生って言うのはそんなもんだろう」

ドノスティアに着いた日、これほど長い間リーガでプレイする事になると予想していましたか?
「どうだったかな。明るい未来を思い描いていたのか、不安に震えていたのか覚えてないね。自分がこれからどうなるのかまるで判らずにいたよ。言葉も判らず見知らぬ国に到着したら、自分がこの場所に適応できるのか、どんな未来が自分に待ち受けているのか想像する事も出来ないさ。だけど、俺がレアルソシエダと契約を結んだ時、こんなに長く俺がここで過ごす事になるとは誰も思わなかったことは確かだな。ここに1年いられるのか、それとも解雇されて路頭に迷うのか、何が起こるか全く予想できずにいたさ。もしかしたら逆に俺がキレてチームを飛び出してることも考えられたしね。だけどいずれにせよ俺に言えるのは、この数年間は俺にとってかけがえの無い素晴らしい日々だったってことだ」

あなたが来た頃に比べ、クラブは変わりましたか?
「サッカーに関して言えば、ここ数年は、俺が入団した頃に比べ外国人の数が多くなった。俺の記憶が正しければ、あの当時はKodroとLuiz Garciaの二人しかいなかったと思う。ただ今は逆に外国人が減ってる傾向にあるけど。経営的な面で言えば、クラブの重要性が増していると思う。思い出すよ。Prim通りにあった事務所を。まるで普通のピソを訪ねるみたいだったな」

タイトルを獲得する事が出来なかったことは心残りですか?
「ああ。コパの決勝戦をセルタ時代に戦ったし、2年前にはラ・レアルでリーガの準優勝を果たした。だけど優勝だけは出来なかった。来シーズンはもっとビッグなチームに移って優勝を狙うことにするかな」

フットボールから離れたとき、何を一番寂しく思うことになりそうですか?
「一番は練習だろうな。それが普通だろう。朝の8時には家を出て走ってる自分の姿が見えるね。週末に関しては、これからは家にいることができるのが嬉しい。それが俺の望んでいた事だったから。今は何か特に寂しさを感じてはいないけど、時間が経ってみて質問をされたらもっと具体的な心情を説明できるんじゃないかな」

今度の会長選に際して、あなたが誰か特定の候補者を支持するという可能性があるわけですが、このように自分の将来についてこんなにも早く具体的な行動を起こす事になるとは思っていましたか?
「まだ何も決めていないから。明日の事だって何も決めてないのに、来年以降のことなど益々判らん。シーズンが終わったら自分の身の振り方を発表する。今話すべきははフットボールのことだ」
2005/05/27
Diariovasco--ソビエトに生まれて--
当時の共産主義は、今のロシアと比べるとまるきり別物だ。だがいくら変わってしまっといっても、やはり当時のことは懐かしい思い出だ。幼少から青年になるまで過ごした思い出は忘れられない。もっといい暮らしがあったのかもしれない。だが、俺はその当時は幸せだった。だって他の世界のことをまったく知らなかったんだから。

数人の友だちと監督がいて、またそうした子どものサッカーを応援してくれる大人たちもいた。彼らが俺たちをまとめて、Navara(エストニアの町)の路上でトーナメント大会を開くようになったんだ。そして俺たちはエストニアの大会に出た。だがほとんどろくに練習もしていなかった。ソ連邦では連邦ごとにサッカーの上手い子どもたちを集めて、寮生活をさせる学校があったが、俺には関係ない世界だった。15歳まで俺は路上でサッカーをしていた。だがその頃になると、チームメイトが集まらなくなってチームは解散してしまった。みんな、レコードやディスコ、女の子に映画に夢中になり出したからだ。俺の他に2,3人、サッカーを続けてる仲間がいたんだが、俺は幸運にもタリンのある監督に拾ってもらって、彼のチームに加えてもらえた。そのチームには17歳まで所属していて、その後、俺はタリンの2部リーグBのチームに入った。そこでようやく俺は給料を貰うことが出来るようになった。微々たるものでそれで食ってくことは難しかったが、チームが朝食、夕食に住むところを与えてくれたので、何も持っていなかった俺にとってはそれでもう充分だった。

18歳になったとき、徴兵された。それが全ての始まりだった。隊にはサッカーチームがあったので俺はそこでサッカーは続け、ソ連各地の軍所属のサッカー大会に俺たちも出場したんだ。そこにはCSKAのようなクラブがスカウトを派遣してきていた。そうして大会が終わって2週間経ったある日、俺は命令を受け取ったんだ。"兵士カルピン、モスクワのどこそこに何月何日に出頭せよ"ってね。否も応もない。大佐からの命令なんだから。俺はエストニアを離れたくなかった。近くには母親がいて、それなりに快適な暮らしをしていたんだから。だが、俺に選択の余地はなかった。程なくモスクワに着いたが、俺は新しい生活に少しノイローゼ気味になった。"下手なプレイばかりしていたらエストニア戻れるかもしれない"とかそんなバカなことしか考えてなかった。だがある日、俺は大佐に呼び出された。彼は大会での俺のプレイを見ていたんだ。そして、もしも俺がこのままフザケタ真似を続けるようだったらエストニアに戻るどころか、シベリアに行って熊と暮らす日々が数年間続くだろうと言われた。真面目にサッカーをするか、日本の近くまで行くか、どちらか選べと。当時はそういう世界だったんだ。そうして、他にどうしようもなく、俺はまともにサッカーをすることになった。俺はCSKAのトップチームに上がり、1年間そこでプレイした。兵役が終わったとき、CSKAは俺にチームに残るように強く働きかけてきた。残れば中尉に昇進させると言われた。契約じゃなくてほとんど任官されるに等しい状況だ。中尉カルピン、サッカーをすることを命ず。あるベテランは大佐まで上り詰めていたよ。

だが俺はFakel Voronezhに移った。モスクワから車で4時間ほどの町にある、セグンダBに所属していたチームだ。19歳の1シーズンをそこで過ごした俺の元に、また違うチームからオファーが来た。今度はスパルタク・モスクワだ。何が起こってるのか理解できなかったよ。そのときもやはり、事前の打診も契約交渉も何もなく、突然振って沸いたような話だった。"君を我がチームに欲しいので、この日にここに来てくれ。これまで君がいたチームには、我々から契約の印として5袋のじゃが芋とハム5塊を贈る。以上"ってね。俺はモスクワに行って、そしてプリメーラでのサッカーが始まった。1989年の12月15日だったな。スパルタクでプレイするということは、エイバルやテラサにいて、バルサやマドリーからお呼びがかかるようなもんだ。有り得ないことだった。俺の母は、工場で働き俺の2倍は稼いでいた。だが20歳の若者にしてみたら、スパルタクのトップに所属し、ロシアの1部リーグやヨーロッパの大会に出れることが何よりも大事だった。その後のことは、皆もうよく知ってる話だ。1994年の7月に俺は生まれて初めてサンセバスティアンの地を踏んだんだ。
 
2005/05/27
DiarioVasco紙--ラ・レアルと自分--
とうとう引退です。
「他の人には判らないだろうが、自由になれるときがきたんだ。練習や試合で俺の姿を皆は見てるが、その後の俺の姿を知っているのはほとんどいないだろう?女房に俺、それに極々僅かな人だけだ。今がその時なんだと思う。去年、来年ではなく」

どのような気持ちですか?
「こんな人生を送る事になるなんて夢にも思っていなかった。エストニアの子ども、その当時はソ連だったが、そんな子どもにはこんな人生考えられなかったんだ。例えば1985年にはどんな選手もソ連と資本主義諸国の壁は越えられないと思っていた。その状況がその後、2,3年で変わってしまうなんて誰も考えられなかった。そこへゴルバチョフが登場して、政治路線の一大転換があって、多くの変化が起こり皆大混乱に陥ったわけだけど、それでも、こうなったのもゴルバチョフのおかげな部分もある。不幸中の幸いにも」

ラ・レアルに来る事になったのはどのような経緯で?
「そりゃもういろんなことがあったさ。レアルソシエダの事はリーガエスパニョーラの一チームとして知ってはいた。少なくとも名前だけはね。モスクワにアスティアラサラン、イルスタ、オテギが来た時、彼らは俺に誰からレアルの選手を知ってるかって聞いた。ええ、一人知ってますって俺は答えた。コドロのことだ。その当時のロシアではリーガの試合なんて放送されていなくて、新聞の試合結果でしか知ることしか出来なかった。"レアルソシエダ対アルバセテ、1対1、ゴール:コドロ"ってな感じでね。いつでもコドロの名前が載っていて、それで彼の名前を覚えていたんだ」

ロシアの官僚たちを説き伏せるのは大変だったんじゃないですか?
「移籍は大変だったよ。契約的な部分もそうじゃない部分も。最初にスパルタク・モスクワの副会長がサンセバスチャンに行ったんだ。移籍に加え、俺の個人的な契約条項のための話し合いだったんだけど、その場に俺の代理人もそれに準ずるような人もいなかったんだ。彼らがロシアに戻ってきた時に言われたのは、"話は全てまとまっているからお前はラ・レアルに行け"。こちらは寝耳に水だ。ちょっと待て、お前ら何の話をしてるんだ、俺はそんな話、誰からも聞いてないぞと」

どうやって話はまとまったんですか?
「ラ・レアルは俺が契約すると思っていたんだけど、スパルタクの副会長が仕様もない奴で事態をグチャグチャにしたんだ。埒が明かないんで、ラ・レアルの首脳陣が今度はモスクワに来た。1994年のアメリカのワールドカップの前だったと思う。彼らは俺に移籍の話しをして、トシャックが俺に興味を持っていると説明してくれた。トシャックが熱心に、何としても俺をチームに呼びたいと主張したんだ。他の選手も候補に挙げられたんだが、トシャックが首を縦に振らなかった。それで3人がロシアまで話し合いに来ることになったんだ。彼らはこの移籍の素晴らしい点を挙げて、サンセバスチャンの絵葉書も見せてくれたよ」

説得は上手く言ったんですか?
「葉書を見せられて、俺は綺麗な街ですね、って答えたよ。だけど、街が綺麗なのと仕事の話は別だとも言った。誰からも詳しい話をまだ聞いていなかったし、進展があまりにも急だった。当時コンピューターもプリンターも普及していなかったし、ロシアだったらなおさら遅れてる。契約を作成する必要があったし、俺は代表の合宿に向けて出発しなくちゃならなかった。それでも何とかやっと話がまとまって、試合に出かけるための駐車場で契約書にサインしたんだ。ルジニキスタジアムの駐車場の車のボンネットの上でだ」

移籍には話せないような苦労も多かったですか?
「ワールドカップの後に俺はここに来たんだけど、まだスパルタクと調整しなくちゃならない問題があった。ややこしかったよ。オテギ会長や当時関わった人たちが望めば、いつか話せる時が来るかもな」

リーガとレアルソシエダにはどのように順応したんですか?
「馴染むのにそんなに時間をかからなかったと思う。スペイン語を出来るだけ急いで習得するようにしたんだが、それは言うほど簡単なことじゃなかったね。サッカーもロシアとはまるっきり違っていた。唯一同じなのは、ボールの形と11人で戦うってことだけだった。練習も違うし、チームの戦術も全く違う。だが、俺はそれに順応した。俺は自分に言い聞かせたんだ。"ロシアでのことは全て忘れろ。ここではそれが全く何の役にも立たないんだから"ってね。昔の事を思い返し始めたら前に進めなくなる。ここで俺はゼロからスタートしなくてはならなかったんだ」

2シーズンを過ごした後、あなたはバレンシアへ移籍します。その当時、物議を醸した移籍でしたね。
「バレンシアがチームと俺にオファーを出したんだ。その年、バレンシアはアトレティコマドリーに次いで2位の成績を収めて、UEFAを戦っていた。俺は選手としてもレベルアップしたかったし、経済的にももっと豊かになりたかったんだ。ラ・レアルは俺を手放したくなったので、交渉に加わっては来なかった。だから最終的にバレンシアは違約金を支払うことになり、俺は移籍した」

ラ・レアルを離れるにあたっての騒動はあまり思い出したくない記憶ですか?
「当時、俺は自分がしなければならないことをしたと思っていたし、今でもそう思ってる。ただ心残りだったのは周りの反応だった。予想外の反応だったんだ。俺は鼻が折れても、踵に炎症があっても試合に出て戦っていた。そしてファンから"真のレアリスタだ"とか"あんなに汗をかいて走り回ってる奴はいない"とか"プロ意識の塊だ"とか言われていたのに、ある日を境に手の平を返されたんだ。俺は全ての面に置いてプロであるべきだと思ってる。金を稼ぐこともプロとして当然の目的だ。それにその後、いろんな人と個人的に話をしたら、ほとんどの人が俺のしたことを理解できる行動だと言ってくれた。考えてみろよ。もしも同じ仕事をして、報酬が10倍になるといわれたらどうする?」

いずれにせよ、貴方のキャリアの中心なのはビーゴ時代でしょう。
「俺にキャリアで一番重要な時期を選ぶとしたら、それはスパルタクモスクワ時代だと思ってる。そこが全ての始まりだし、そこでの活躍があってラ・レアルへの移籍が実現したわけだし。チャンピオンにもなった。欧州カップを1990年に手に入れたんだ。ベルナベウで1-3のスコアでレアルマドリー相手に勝ってね。もし、トシャックが俺に注目したとすればそのときだったんじゃないか。その年のスパルタクはロシアのトップのチームだったし。俺のスポーツキャリアは3つの時期に分けることが出来ると思う。スパルタク、セルタ、そしてレアル・ソシエダ。どれも偉大なクラブだ」

ラ・レアルに戻ると決めた時、懐かしさは決断に影響しましたか?スペインでの最初の数年間の思い出は脳裏に去来したんでしょうか。
「経済的にはもっといいオファーがあった。5月の時点で持ちかけられていた話もあった。だが、俺は代理人に言ってあった。もしも俺がビーゴを離れなければならなくて、もしもスペイン国内に移籍しなきゃならなくなったとしたら、その行き先はラ・レアルしかないってね。どうしてか?ラ・レアルについて俺が既に持っていた知識、クラブのこと、それに家族の意見を考え合わせたんだ。引越しをするなら、新しい住まいはサンセバスティアンにしたいというのが俺の家族の希望だった。そうしたたくさんの事情があって、オファーが来た時、俺は即決したんだ」

戻ってきた時、以前のラ・レアルとは違うと感じましたか?
「いや、そんな極端に変わってはいなかったな。違いを挙げるとすれば、最初の時は外国人が3人だったのが、次に来た時は7人かそこらに増えていた事。クラブのレベルは昔に比べずいぶん上がってると思う。時と共に何事も少しずつ進歩発展していくんだ」

ラ・レアルの未来は貴方の目にはどのように映っていますか?
「そのことを考えるには何よりもまず、誰がこのクラブの先頭に立って率いていくのかを見極めないと。その人物がどのような理念を持って、そのような手段を用いるのか。まずはそれからだ。どのような未来がラ・レアルには待ち構えているのか、それは一方で、どのような未来をラ・レアルが欲しているのかということだ。優勝を目指す?まずそれは限りなく不可能に近いだろう。UEFA圏内に入る?まだ可能性はあるが、それでも困難なことは一緒だ。降格争いを加わらないこと?それは可能だろう。それとも降格しないこと?それは俺が言うまでもないことだし、それは目標にあげるまでもなく、当たり前のことだ。それを踏まえて、将来の話をすることが出来る。地元出身の選手たちだけチームを構成したいのか、数人の外国人を入れて組み立てたいのか、それとも外国人は減らしたほうがいいのか…。誰が組織のトップになるかによってその方針が変わってくる」

変革の余地はあると思いますか?
「やろうと思えば出来るだろう。だが、それが問題なんじゃない。出来るかどうかじゃなく、しなくてはならないんだ。ミゲル・サントスの方針について俺は今何も話すことは出来ないが、何かをしなくてはならないことははっきりしている。革命を起こそうとしてるわけじゃない。だが、大きな変化が必要なんだ。ラ・レアルはここ数年の間、問題の火種を抱えてきた。このままそれを抱え続けていったらどうなるか、皆よく知ってるはずだ。炎上して火ダルマだ。そうした末路を辿ったチームがいくつもある。だから変わらなければならないんだ。そうでなければ、シーズンの終わりに運が悪ければ降格だ」

それはどのようにすればいいのでしょう?
「流れを変えないといけない。俺は変えられると思っている。どうやるのか?今あるものを維持しつつ向上していくこと、そして移籍を通じていい選手を採る。レアル・ソシエダはこれまでそうして来たんだ。それ以外の方法はない。このクラブには潤沢な資金なんてないんだから。それ以上は今の俺には語ることは出来ないな。クラブの現状を把握してるわけじゃないからな」

言うのは簡単ですが…。
「移籍で選手を獲得するのも簡単じゃない。ある選手を欲しいと思っても、契約に至るまでには幾つもの事柄に左右される。契約金は幾らなのか、所属クラブの意向はどうなのか、本人の意思はどうなのか…。たった一人の移籍に関しても多くの紆余曲折があるんだ、クラブに関しては言わずもがなだ」

ファンに夢を与えることが出来ると思いますか?
「どうやって夢を与えるんだ?奇跡なんてものはないんだ。リーガ優勝は確かに奇跡だろう。UEFAにしても困難だろうが、まだ多少可能性がある。2年前の成績は奇跡だった。だが理念の話になると、また別だ。その部分を変えなければならないんだ。そんなことが果たして出来るのかどうか…。俺は出来ると信じてる」

クラブは今、差し迫った重大な局面を迎えていると?
「そうだ、危機的な状況だと思う。クラブは今、変わらないといけない。チームが先で、クラブが後なのか、それともその逆なのか、もしかしたら同時かもしれない。どの順番かは判らないが、変化が必要なことは確かだ。難しいだろうと思う。奇跡なんてものは起こらない。だけど、ファンに夢を与えることは出来るのかと問われたら、俺は出来ると答える。まずはクラブがどのような状態なのか知ることから始めるわけだが、実際は周りが思ってるほどひどい内情ではないと思う」

ミゲル・サントスと共に会長戦に出馬してもいいと思った要因は?
「色んな要因があった。もちろん、個人的に話し合って、情報のやり取りもした。ミゲル・サントスは強い意志と、高い能力を持っている。必要な変革を行い、スタジアムに希望をもたらすことが出来る人だ。一緒に出馬してくれと頼まれたんだが、自分にそんな大役が勤まるのか判らないよ」

彼のスポーツアドバイザーになるんでしょうか?
「俺が何よりも詳しいのはフットボールだというのは確かだからな。だからといって、フットボール以外のことはまるっきり判らないと思って欲しくはないんだが。もしミゲル程の人物が、俺のことを買ってくれて声をかけてくれたのだとしたら、前向きに考えるに値する申し出だ。だからNoとは言わなかった」

人生設計を変えざるを得なくなりますね。
「そのこともあって、じっくりと検討したよ。ビゴでの生活を想定して、今後の暮らしを考えていたのに、人生は何が起こるか判らないもんだ。ビゴで5年間過ごし、そこで築いた生活の基盤から離れなくてはならない」

ビーゴとドノスティア、どちらを選びます?
「その質問は子供に対して、ママとパパどっちが好きか聞くようなもんだ。どちらとも言えないさ。サンセバスティアンは最高の街だと思ってる。ここを去る時にも同じことを言ったし、ビーゴに居た時もそう言ってきた。これからもそう言い続ける。今になってやっとその魅力に気付いたなんていう次元じゃないんだ」
2005/05/27
Diariovasco紙--ラ・レアルで共に戦った5人の監督から見たカルピン--
John Toshack
**1994-95シーズン**
「ロシアの選手を移籍させることは簡単じゃなかったね。良く覚えてるのは、私がカルピンに興味があると向こうに伝えたら、彼以外の選手も一緒にどうかと何人も薦められたんだ。そのリストにはその後、スペインに来ることになる選手が含まれていたよ。オノプコ、ラドチェンコ、ニキフォロフ…。だが、私にとって欲しかったのはカルピンだけだった。中盤に3人を置いたシステムで彼が右翼としてもプレイしているのを見ていたんだが、私は彼に中央で使いたいと思ったね。チームにはImazとGuruzetaの2人のピボーテがいたんだが、彼らと組み合せたら面白いことが出来そうだったんだ。
彼はあの時25歳だった。闘争心に溢れ、良く動き回り、ボールを要求する様は見ていて気持ちよかったね。
Arginanoと一緒にT.IrustaとL.Urangaと打ち合わせをしたときのことを覚えているさ。先方の要求額は8000万以上で、それは我々にとって大金だったが、それだけの金を払っても獲得したい選手だったんだ。3人の外国人しかチームに在籍させる事が出来なかったから、なんとしても移籍を成功させる必要があった。
その後のことは言うまでもないだろう。彼の獲得に8000万払ったが、バレンシアに行く時にはその値段は億を超えていた。だが戻ってきた時はタダだ。これは経済的な面での話だが、フィールド上での彼の活躍はみんなの知ってる通りだ。近年ラ・レアルに在籍した外国人選手を一人残らず比較検討してみてもいいが、彼のような選手は他にはいない。カルピンはいつでも試合に出ていた。たとえ怪我をしていてもだ。どのポジションでもこなしたし、ゴールも決めた。彼はリーダーだった。偉大な選手であり、勝者だ。彼がこのチームで優勝出来なかった事は本当に残念な事だよ」

Salva Iriarte
**94/95、95/96シーズン**
「彼は完成された選手だったよ。間違いなくレアル・ソシエダにおいて輝かしい業績を残したと思う。契約を結ぶ前にモスクワに行って、彼を見たことを思い出すね。その試合で彼は右サイドを幾度も上がったり下がったりしていた。我々にとって彼はとても魅力的な選手だったよ。まだ若かったが、フィールド上ですでに強い個性を発揮していたね。
私の監督時代、彼にはセンターでプレイしてもらったが、チームの必要に応じてどこに置いても機能してくれた。彼は生まれつきの勝者だと思うね。強い闘争心に溢れ、優れた技術と運動能力を持ち、いつだって全力を尽くして戦っていたよ」

Javier Irureta
**95/96シーズン**
「カルピンとの関係はとても特別だったね。ラ・レアルとセルタの2チームで一緒になったが、彼にはいつでも魅了されたね。ピッチ上で機会があるたびに彼とは良く話し込んだよ。
優勝こそ出来なかったが、彼の選手としての経歴は輝かしいものだ。誰もが容易く成し得ることではない。いつだって彼はリーダーだったし、フィールドのほとんど場所でプレイする事が出来る。ラ・レアルでは私は彼をトップ下で用いて、そのシーズン彼は13ゴールをあげたはずだ。そのシーズン後の夏に彼はバレンシアに移籍したんだ。
セルタでも、彼の活躍は目覚しかったね。右で使うことが多かったが、フィールドの真ん中のどこで使っても問題はなかった。試合中のどの場面でも、彼は目立っていたいたよ。2本の足から生まれるパスやゴール。体も強く当たり負けしない、戦術眼も素晴らしい…。
本当に彼は完璧な選手だよ。気の抜けたプレイをすることなど考えられない。いつだってどういうプレイをしたいのか明確なビジョンを持っていて、それをピッチの内外で示す。私といた時、彼は一度も練習を休んだ事はなかったよ。とても丈夫な体のおかげで、ほとんど怪我をすることもなかった。私の知っている選手のなかでも、彼はとても優れた選手の一人だったと言えるね。
今年の彼のプレイを見て、彼がそうしようと思えばまだ選手生活を続ける事は充分可能だと私は確信を持ってるよ。おかげさまで彼とはずっと良い関係でいられたので、この場を借りて彼にはお疲れさまと声をかけてやりたいね」

Raynald Denoueix
**02/03、03/04シーズン**
「彼のことは"ミスター騒音"と呼んでいたね(笑)。だって本当にいつでもしゃべっているんだよ。確か、ボールをフィールドに運んでいるときですら何か話していたね(笑)。
カルピンは高い能力を持った偉大なプロフェッショナルだ。どんな状況だろうと、ピッチ上では頭の良い、ハイレベルのプレイをいつでも見せてくれる。また、それがどのポジションでも高いクオリティを保っていたという点が彼の素晴らしいところだ。彼は闘争心のある選手であり、他を圧倒する気迫を持つ者だった。そして一人の人間として、彼はチームになくてはならない存在だった。ピッチの中だけでなく、外においてもね」

Jose Mari Amorrortu
**04/05シーズン**
「彼は偉大な選手だよ。また長い選手生活を、信じられないような献身的な努力で過ごした選手だ。試合での彼ももちろん素晴らしいが、私は彼の日々の練習における努力を強調したいね。それにサッカーに対する愛情もね。彼はまだ選手を続けることも出来たはずだ。だが引退すること決意した。我々はその気持ちを尊重しないと。
彼は恵まれた身体を持っていたと思う。だがそれにも増して、彼の献身的な努力を私は強調したい。彼はフットボールそのものだ。だって彼は本当にサッカーが大好きなんだよ。毎回シューズを履く瞬間、彼はその気持ちを再確認しているんだ」
2005/05/28
Elmundodeportivo紙
最後の瞬間まであとわずか数時間ですが、今どんな気持ちですか?落ち着かない感じですか?
「いろんな感情が一緒くたになった感じだな。ほかの選手同様、シーズンを終えて休みたいという気持ち、少し寂しい気持ち…。でも不思議な気持ちだな。もう二度と戻ることはないと判っているから」

今までのシーズン最終戦とは違うことを何かしたりする予定は?
「ないよ。いろんな友だちから電話があった、アノエタに最後の試合を見に来るって。ビゴからも来るし、モスクワからも数人来るぜ。いろんな種類の人が来るんだ、近所の人からロシアの人まで」

この試合は貴方にとって大事な試合となりますか?
「何を持って大事と言うんだ?これまでの日曜日と俺は変わらないプレイをするよ。だが俺にとっては、アルバセテ戦よりは大事な試合であることは確かだな」

過去を振り返って見て、頭をよぎるのはどんな思いですか?
「過去を振り返ると幸せな気持ちになるな(笑)。7歳の自分、8歳の自分、15歳の自分、そして今の自分を思い比べてみると、こんな人生を送るとは予想もしていなかったよ。あらゆる面でね。スペインで名の知れた選手になって、ヨーロッパや世界でも多少は俺のことを知っているヤツもいる。経済的には、サッカーのおかげで想像以上の金を稼ぐことができた。15歳の俺はロシアの閉ざされていた国境の中で、ソビエト連邦以外のいる自分の姿なんか考えられなかった。スペインで暮らし、スペインでサッカーから引退する自分なんて想像出来るわけないさ」

スポーツキャリアの始まりを教えてください。どうしてホッケーではなくサッカーを選んだんですか?
「サッカーはいつでも大好きだった。だが冬の間はプレイできないんだ。オリンピックやワールドカップなどの舞台で活躍することは国の威信につながると言う理由で、ソ連ではスポーツはすごく重視されていたから、それぞれの連邦でもスポーツにはお金がかなりかけられていた。夏にはサッカー、冬にはホッケーをしたんだ。ただ雪の上でもサッカーしてたけどな」

サッカーと同じくらいホッケーも上手だったんですか?
「その当時は同じくらいの上手さだったと思う。13歳で俺はエストニアのホッケー代表に選ばれていたので、俺はサッカーとホッケーどちらかを選べと言われたんだ」

90年代の頭になると、ロシア国内で貴方は頭角を現し始めます。レアルソシエダというチームからの移籍の話は誰から聞いたんですか?
「スパルタクに1989年入団したんだ。それまでは徴兵されていて、CSKAで軍のチームに所属してサッカーをしていた。スパルタク時代には貴重な体験をたくさんすることが出来た。リーグ優勝やUEFAやチャンピオンズカップにも毎年のように参加して、そうまるでレアルマドリーにいるかのようだった」

すばらしいチームだったんですね。
「主だった選手のほとんどがその後、スペインでプレイしてる。オノプコ、レディアホフ、ニキフォロフ、モストヴォイ、ラドチェンコ…。94年にラ・レアルから俺に移籍の話が来たんだ」

実はスパルタクはラ・レアルに他の選手を売りたかったのに、トシャックが他でもなくカルピンが欲しいと主張したと言い伝えられてますが、本当ですか?
「スパルタクのリストには俺の名前も入っていたさ。レディアホフと俺の他にあと数名いたんじゃないか。だが監督は俺だけが欲しかったんだ。最終的にラ・レアルの首脳陣がモスクワまで俺に会うために来てくれて、道の真ん中で契約にサインしたよ」

ラ・レアルについては何か知識はありました?
「スペインリーグのチームであることは知っていた。何かラ・レアルについて知ってるかとそのとき聞かれたが、俺が唯一知っていたのはコドロのことだった。その時代、ロシアでは直接リーガを見ることは不可能だったから、新聞でしか俺は知識を得られなかった。たとえばラ・レアル対オサスナ、2対1。コドロ2ゴール。そんな感じでね。いつでもゴールを決めていたのはコドロだった」

バラハスの空港で一騒動あったんですよね。
「そりゃもうステキなね(笑)。写真を撮られたりインタビューを受けたりしているうちに、旅行かばんを盗まれたんだ。1万ドル入ったかばんだ。それがその当時の俺にとってどれだけの大金だったと思う?一財産だ。11年前の1万ドルだぜ…」

第1期ラ・レアル時代は、振り返ってみるとどんな時代でしたか?
「最初の年は、ゴールがなかなか決められないことをよく指摘された。おかげでビアリッツにある正教会までお祈りにも行ったよ。自分ではいいプレイが出来ていたと思っていたがね。実際、翌シーズンの9月にはラ・レアルは俺の契約を延長してくれた。3、4年か、正確な数字は覚えていないが。翌年の大きな出来事はコドロが去ったことくらいか?俺の成績は13ゴールだった」

そのゴール数が次の段階に進むための要因となったのでは?
「かもしれない。バレンシアから移籍の話が来たわけだから」

貴方の移籍は論議を呼びましたね。当初、あなたはチームに残りたいと言っていたのに、その後になって違約金を値引きしてくれるよう頼んだらしいなどと噂されました。その時のことはどのように思い出しますか?
「それぞれの考え方があると思う。だが俺には何がどのようにして起こったのか、何故そうなったのか、判ってる。俺にとっては契約書よりも言葉のほうが大事だった。彼らはある事を約束してくれたのに、それを実行してもらえなかった(誰とは彼は明言しなかったが、ルイス・ウランガ会長とその当時のフロントのことを指す)。でも起こった事は起こった事。"禍福は糾える縄の如し"だよ。バレンシアでプレイして、その後セルタに移った。そしてその時期に俺は、代表で一番いい成績を残す事ができた。ヨーロッパで戦い、UEFAで4位になったりととても充実していたと思う」

そして、ラ・レアルに戻ってくる事になりました。フットボールとは不思議なスポーツです。10年前、多くの人たちがあなたの行動を非難しました。それが、今や辞めないでくれと引き止めています。
「そんなもんだ。バレンシアに移る前、鼻が折れてもピッチに立っている俺を見て、人々は賞賛してくれた。それが3ヶ月後には正反対の反応になるんだ」

それから多くの月日が過ぎ、多くの経験を積んできた今のあなたが、あの時と同じ状況に立ったとしたらバレンシアに移籍しますか?
「いいや、絶対しないだろうな」

時として、お金は若い選手の判断を惑わすものだとは思いませんか?
「ファンもチームへの愛で盲目になる事だってある。選手個人の目標として他のクラブに移ってもっとお金を得たいと思う気持ちはファンも理解できるはずだ。世界中で同じことが行われてるんだから。それが国を代表する場合は話が話が違ってくるけどね」

バレンシアに移った経緯を考えると、ラ・レアルへ戻る道はもう永遠に閉ざされたと思われましたが…。
「この世に"絶対"はないってことだ。あんなことがあったのに、俺はここでまた三年を過ごし、みんなさらにもっといてくれという。実に不思議なもんだよ」

バレンシアを去るときにはラ・レアルに戻るという可能性はあったんでしょうか?
「無かったと思う。ラ・レアルフロントからは俺と話し合おうとする動きは無かったし。別にどうということはない。俺はビーゴに移って問題なしさ」

何事も無ければ、そのままセルタで引退するのだろうと考えていたと思うんですが…。
「普通だったらビーゴで引退していただろうな。だが、そこでもまたフロントが俺に約束した事を果たさなかったんだ。結局、俺はここに戻り最高の時間を過ごせたよ」

あなたの成績そのものが、あなたの飛びぬけた才能を物語っています。何度かいわゆる"ビッグ"なクラブからのオファーがあったんじゃないですか?
「唯一、可能性があったのは2002年にあったバルサからのオファーだな。でも具体的にはならなかった」

心残りに思いますか?
「いいや。ただそうしたチームでプレイしたら、なにかタイトルを得ることが出来ていたかもしれない、それだけのことだ」

それだけのこと?
「もし25歳の時の俺が今の自分を見ることができたら、何の不満もないはずだ。今、抱いてるのは全てに対する感謝の気持ちだけだ。なぜなら俺は今、幸せな人生を送っている。いろんなことが起こった人生だったが、それは幸運だったんだ。こんな人生を送れる人はそうそういないんからな」

最近のロシアのサッカー事情はどうなんですか?
「色んな金の投資先になってるね」

出所の怪しいお金の場合もあるようですが…?
「怪しかろうが、怪しくなかろうが、金を稼いだことには変わりないし、その金をサッカーやCSKA、ディナモといったクラブの投資してるってことは、選手にとってはいいことだ」

クラブにとっても?
「投資が続いている間はそうだろう。スペインのように、TVとの契約で手元に金が入ると、世界中のクラブはそうすべきじゃないと判っていても、皆それを即座に使ってしまう。そうすると残るのは借金だけだ」

ラ・レアルで一番嬉しかった日はいつですか?
「当然だけど準優勝をしたシーズンが一番心に残ってる。試合はたくさんあるけど、初めてのゴールを決めた1994年のバジャドリ戦は印象に残ってる。あれから全ての始まりだったんだから。でも、ラ・レアルで決めた全てのゴールを俺は覚えてる」

では、一番悲しい思い出は?
「リーガを逃したビーゴでの一戦か、そのシーズン最終戦のアトレティコ戦のどっちかだな」

サッカー選手の友達はたくさんいますか?
「たくさん?どれくらいをたくさんっていうのかにもよるな。8人でも俺にとっては多いし、それくらいなら俺にもいる。オノプコ、ニキフォロフ、ダルコ、ニハト、ジオバネッラ…。サッカー以外の友達ももちろんドノスィア、バレンシア、ビーゴにいるし」

奥さんか誰かがこれまでの試合の写真、ビデオ、記録など取っておいてくれているんですか?
「いいや、ぜんぜんない。そうした記録は俺の頭の中にあるんだ」

残しておきたいと思わなかったですか?
「最近、時々俺はなんてアホだったんだって思うね。記録を取っておけば良かったと思うよ。思い出は永遠ではないから。まぁ記憶があるうちはそれで満足するよ。ユニフォームは手元にあるし、いくつかのDVDに俺のプレイやゴールが入ってる。それだけだ。もう終わったことは終わったこと。これから次の段階に進むんだ」

監督で一番心に残っているのは誰ですか?
「イルレタ。彼が一番俺のことを判ってくれたし、彼のサッカーを捉える視線が俺と一緒だった。それにこのサッカー業界では貴重なその人柄。素晴らしい人だよ。彼以外ではルイス・アラゴネスとドゥヌエの二人にいい思い出が残ってる」

ドゥヌエ監督はラ・レアルをいい形で去れませんでしたが、それでも彼を評価するのは何故ですか?
「彼は他の人とは違っていた。最高だよ、彼は。誰にでもあるちょっとした癖が彼にもあったけど、それでも彼は素晴らしい監督だった」

同僚の選手で最も印象に残っているのは?
「マジーニョ。俺がセルタに入団した時のね。いい選手だとは知っていたけど、一緒にプレイしたとき、凄いと思ったね」

ラ・レアルでは?
「ここに来た時だったらコドロ。とても強い印象を受けた。自分の能力の全てをエリアの中で発揮していたよ。2002年の時点ではニハト。彼についての知識はなかったが、弾丸のような選手だった。皆より頭一つ飛びぬけて早かったね」

最も手強かったライバルは?
「たくさんいて思い出せないくらいだ。幸運にもマラドーナと対戦出来た。それからロベルト・カルロスとは何試合も対決した。あと覚えてるのは93年に、まだスパルタクにいた時、セルジとモスクワで対戦したが、彼のスピードには目を見張ったよ」

プレイをしたことがあるフィールドでベストの場所は?
「俺にとっても最も印象的なフィールドはアンフィールドだ。スパルタク時代、1992年にリバプールをその場所で破ったんだ。夢の中にでもいるかのような感じだったね。ベルナベルのようなスタジアムが凄いと良く引き合いに出されるが、俺には周りの雰囲気の方が印象に残る。ロシアでは10,000人入ればそれでニュースになるが、アンフィールドでは40,000人に周りを囲まれて、そいつらが皆で叫んだり騒いだり、それはもうゾクゾクするさ。アンフィールドロードのことはきっと一生忘れないね」

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